※この記事は2014.03.12に作成された記事です。

 この店を初めて見かけたのは、もう何年前になるだろう。そんなことを思うと、恐らく京王本線で明大前より奥に住んでいる方は、きっと各々が前回引越しをした時のことを思うかもしれない。人それぞれに、さまざまな人生を歩んで、それぞれに必然性や理由を持って東京の西側へ居を構え、そして毎日の人生を続けていく。電車の中はさまざまな理由で同乗している様々な人生が顔を合わせる場所でもあると思う。  そんな人々が、明大前から下高井戸の間の、線路の沿線を車窓に見る時、目を留めたことがあるだろう一軒の珈琲屋がある。喫茶店や珈琲に特別なアンテナを張っている訳ではない人でも、あの店の店構えを見れば「ああ、」とこの店を憶えていることに気付くのではないかと思う。  決して大きくも派手でもない、その一軒の珈琲屋の店名は『山猫珈琲店』という。木製の店頭はシックな色合いで慎ましく、その奥に続く扉はいつも閉ざされて、その向こうの空間を覆い隠している。車窓から目を留めて、かろうじて読み取れるその名前と木造の店の佇まいに、私はファンタジーの匂いを感じていた。宮沢賢治の『どんぐりと山猫』然り『注文の多い料理店』然り、さらにはジブリの映画の『猫の恩返し』に出てきた王様猫然り、京王線の奥にある聖蹟桜ヶ丘を舞台とした『耳をすませば』に出てきたバロンや、主人公を取り囲んだ甘くロマンチックな『地球屋』の演奏会の場面。閉ざされた扉の奥にあるだろう空間に、私は電車の窓から一瞬ごとの夢を見ていたと言ってもいいのかもしれない。  私に関して言えば、私が実際にこの『山猫珈琲店』を訪れたのは、同店を車窓に見つけてから、五年以上の時間が経ってしまってからだった。夏の熱を帯びた白い光の降る昼下がり、薄暗い灰色に曇った真冬の冷たい空気の中、柔らかく暖かな光のにじむ春の午後。暑さが去って間もない澄んだ空の秋の日。そんな日常の中で、不意に目に留まって思い出す、そして車窓に在り続ける『山猫珈琲店』は、いつも変わらぬ表情で、同じ場所で行き交う京王線の中に詰め込まれたさまざまな人生を眺めていたように思う。  先日、明大前での用事を済ませ、ふと空いた時間を前にして、私がこの店のことを思い出したのも、何かの縁なのかもしれない。電車から見下ろす景色に溶け込んで、一度も訪れる機会を持てないままでいたこの店を、私はその夜、訪れてみようと初めて思った。  明大前から下高井戸までは、それほど離れて居なかった。一度だけ歩いたことのある道順を記憶の中で辿りながら、私は明大前の駅前から、線路沿いの道を歩いた。  車窓から眺めるのと、実際に歩いてみるのでは想像以上に印象が違う。こんな気持ちを以前にもどこかで感じたな、と歩きながら考えていて、それが井の頭公園駅から三鷹台の駅に繋がる川沿いの歩道を歩いた時の記憶だと合点する。緑の芝生を抜けて、細く続いて行く神田川に沿ったあの道は、歩いてみると思ったよりも暗く長い道に思えた。それが夜中だったせいもあるのかもしれない。時折にぎやかな色の光を宿して闇の中を走り抜ける井の頭線の電車が、とても眩しく見えたものだった。暗い道を一人きり歩く自分の傍らを、光を宿して走り抜ける電車は、私を置いてきぼりにするものに思え、夜道を一人で歩くことに一層の寂しさを加える存在だったように思う。反対に、電車の中から見下ろした時は、川沿いに緩やかに伸びる歩道を歩く人たちを、私は少し羨ましく見下ろしていた。人が詰め込まれた空間のまま走る電車の中からは、時間にも空間にも縛られないで、季節の花が咲き添えられている路を、自分の足でゆっくりと歩くということが、とても優雅に思われたものだった。電車の中から花咲く路を歩く人を羨むのも私だし、真夜中の暗闇の道を一人で歩きながら、にぎやかな光の電車が走り抜けるのを疎外されるように寂しく見送ったのも、他ならぬ私であるということを考える。その場その場で、私にとって必然だった感情は、単にどこにいるかという立ち位置だけの問題なのかもしれないということを感じたことを思い出す。  車窓から見慣れた場所に、『山猫珈琲店』は在った。私がそこを訪れた時には、周囲はもう日が暮れて薄暗くなっていた。店の前に立ち、車窓からの一瞬を積み重ねた外観を、ゆっくりと見上げてみる。ずっと顔見知りだったけれど、話したことのない知人と、初めて話をしてみる時のようだ、と感じた。  一呼吸を置いて、ドアを引いてみると、店内は思っていたよりも小ぢんまりとしていた。ドアの傍らから店の奥に伸びるカウンターと、その後ろに二人掛けのテーブルが二つ。十人も入れないほどのその店は、カウンター内で新聞を読んでいる男性が一人で仕切っているようだった。  薄暗い店内にはラジオが流れていた。ジャズバンドが番組に呼ばれ、『ひょっこりひょうたん島』の音楽を演奏している。クラシックかジャズが似合いそうな店内に、耳馴染んだ「波をちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ掻き分けて」というコミカルな歌がジャズアレンジを施されて漂う。『おもひでぽろぽろ』のワンシーンみたいだな、と先ほどまでのジブリの連想からの連なりで私はカウンター奥の席の椅子を引いて座りながら、ぼんやりと考えていた。 「何になさいますか」  目の前に置かれた水の入ったグラスと、メニューを見下ろしてみる。 「オリジナルブレンドを」  初めて訪れた喫茶店では、必ずその店のスタンダードなブレンドコーヒーをお願いすることにしている。その一杯の中に、店主がお店の中に何を描こうとしているのかという核が見えるような気持ちがする。  言葉少なな店主は、メニューを引き後ろを向いて作業に入る。店の中には他の客がおらず、この室内には店主と私だけがいることになる。喫茶店趣味のある友人と話すと、「その状況が気まずくて苦手だ」と言われることがあるけれど、私は寧ろ、他の来客に注意を削がれず、空間に向かい合うことができる気がして、その状況は嫌いではなかった。  鞄から、返事を書きそびれている手紙を三通取り出す。古い友人が海外の旅行先から送ってくれた葉書。去年会社を辞めた同僚が、お嫁に行った先の静岡から送ってくれた手紙。先日数年ぶりに再会した高校の同級生から届いた手紙。メールやSNSならば、出先から携帯で返信することもできるけれど、手紙というものはそうはいかない。書こうと思えばどこでも書けるかもしれないけれど、相手が私のために便箋や葉書を選び、ペンを取って、一人の時間を注いでくれたものを返すには、私も同等の丁寧さを用意する必要がある。騒ぎたい盛りの一歳の猫が二匹走り回る自宅の居間では、一人で手紙に向き合うことなど叶うわけもないし、会社帰りの喫茶店では一日の疲れで贈るべき言葉も出てこなくなってしまっている。偶然に訪れたような喫茶店でのこの静かな一寸の時間は、私にとってここのところ気にしていた手紙の返事を書くための、又とない好機だった。  もうすぐ暖かくなり、もう早い花は街角のそこここでつぼみを開いているこの季節に、私は桜の花が印刷された便箋を選んだ。インクが乾くのが遅いから、普段使うのを億劫がってしまう万年筆を持ち、相手の名前を冒頭に書くと、考える間もなく、私の指先からは伝えるべき言葉がつらつらと流れ始める。  手紙を書くことに没頭してしまって、私は自分の傍らに頼んだ珈琲が届けられていることに、目を上げて初めて気付いた。白いカップに注がれた珈琲は、丸い印象ながら重みを帯びて、普段飲む中でもとりわけて美味しいと思わせられる部類のものだった。  この特別美味しい珈琲が添えられたこの場所での一寸の時間に、灰皿を用いることができれば、どんなに幸せだっただろうと思ってしまうのは個人的な我儘ではある。しかし、普段は珈琲を飲むこととと一人の時間を過ごすことに必ず添えられる煙草というものの存在を我慢する価値のある場所だなと、思ったことも記憶にある。こんな風に書くと、喫煙者にしかこの場所の魅力が伝わらないのではないかという気がしてしまうけれど、それほどに喫煙者が灰皿がないことを承知で足を運ぶ価値があるという喫茶店は世の中に多くはないということは言える。

このスポットの情報
スポット名 山猫珈琲店
連絡先 03-3322-6522
住所 東京都世田谷区松原2-28-11