※この記事は2014.01.28に作成された記事です。

 名前だけ知っていたその店を訪れてみようと思ったのは、渋谷のBunkamuraに一人で絵を見に行った帰り道でした。 私は日の暮れかけた渋谷の街中でぼんやりと信号待ちをしていました。 「絵を見ることは、とても頭も集中力も使うことなのだわ、忘れていたけど」 「どこか人の少ない場所に座って、美味しい珈琲を飲んで、少し休みたい」 週末の渋谷の街は厚手のコートを着込んだ多くの人が行き交っていました。信号が変わって動き出した往来の流れの中で少しでも立ち止まると誰かの邪魔になってしまうため、私は冷たい風が吹き込まないようコートの前を押さえて、駅に向かう人の波に流されるように歩きながら、私がそれから向かうべき場所について思い浮かべていました。 「どうせなら、知らない場所に行ってみたい」  渋谷にあるいくつかのお店を思い浮かべてみてから、ふと思い出したのは、明大近くにあるという『ブックカフェ槐多』の存在でした。  雑誌の記事で見かけた写真で、天井高くまで壁沿いに仕付けられた本棚に並ぶ古い本たちの横顔。木製のテーブルがいくつか並ぶ、あまり大きくなさそうな店内。  そのイメージが思い浮かんだところで、人の波は渋谷駅前に流れ着きました。私は迷わず井の頭線の改札を入り、吉祥寺行きの急行に乗り込みました。

 明大前の駅を出ると、日はもう完全に暮れてしまっていました。携帯で地図を確認し、かつて幾度か訪れたことのある明治大学へ向かう道順を辿ります。駅前の道を右手に進み、高速道路の高架の手前あたりのビルを、地図の中の印は指し示していました。  足を止めて注意深く見回してみると、闇が滲んで間もない景色の中にあるビルの一つの入口に掲げられた看板を見つけることができました。

 看板に促されるまま、コンクリ作りのビルの中に入り、灰色の打ちっぱなしの階段を地下に降りた場所に『ブックカフェ槐多』は存在していました。初めて訪れる場所のよそよそしさと緊張感で、私はその扉を引く前に少し躊躇しました。一人で初めて訪れる場所はいつでもそうです。ですが入口の扉のガラスから覗いてみた店内の、暖色に滲んだ室内の暖かな気配は、静かに訪問を待ってくれているように思え、私は呼吸を一つした後に、扉を引きました。

 写真で見た通り、天井まで伸びた書棚。驚いたのは、その天井が思っていたよりも高かったこと。1.5階分程の高さがあるように思えました。カウンターには多くの種類のお酒が並び、その奥ではひとりの女性がお店の番をしていました。  先客のいない店内で、私は奥に位置するテーブルを選び、店内を見回しながら席につきました。女性の持ってきてくれたメニューの中から珈琲は500円のストロングを、ケーキはオレンジケーキを選びました。  サイフォンとお酒の瓶が並ぶカウンターの向こうで女性が準備をする気配がします。絵の展示を見て、多くのことを考えたままそれを整理できないでいた私は、やっと落ち着けた暖かな気配の店内にお湯の沸く音を聞いて、体全体を強ばらせていた力のようなものが抜け落ちていくのをぼんやりと感じていました。  ――家が近かったら、仕事の帰り道のひとりきりの夜に、このカウンターを訪れて、お酒を一杯頼んで、読みかけの本を読んだりするような過ごし方をしてたのかもしれないな。  そんな、現在の自分の暮らす日常とは違う、でももしかしたら歩んでいたかもしれない日常の日々の幻が見えたような気がしました。  ――例えば、通っていた大学が明治だったら、私はビルの表から覗き込める半地下のこの喫茶店を、何度も通り過ぎながら気にしていたんだろう。  ――そしてある日、何か小さなきっかけを理由にして、階段を下りてみる決心をしたのかもしれない。  ――そして今日のように初めて訪れたこの場所で、現在の私とは違う日々を過ごしていたとしたら私はどんなふうに感じるのだろう。  そんなことを考えながら、運ばれてきた珈琲に砂糖を溶かしてかきまぜ、カップを口に運びました。

 そこで私のぼんやりとした空想は現実に戻されます。 (美味しい)  ブレンドとは分けてストロングと表記されるだけある重さと安心感を覚える穏やかでしっかりとした苦さ。現実ではない日々へ飛んでいた思考は、美味しい珈琲を頂くことで、私が目の前に過ごす現実に引き戻されました。  ――そうだ、私は今日をここで過ごしているんだわ。  その何でもない気付きは、私は現在の自分の暮らす人生の日々を、初めて訪れた場所で美味しい珈琲を頂くことを切っ掛けに肯定できていることなのかもしれないとふと思います。ひとりきりで過ごす静かな場所では、何でもないことでもこんなふうにささやかで絶対的な発見があったりするのだということを、私は久しぶりに思い出したりしたのかもしれません。

 私はその場の暖かな気配の中で、ゆっくりした時間を過ごしました。 ――今日見てきた絵のこと。久しぶりに会った友人のこと。気にかかっていること。やらなきゃいけないと思っていること。次に書く小説の題材。楽しみな予定のこと。 忙しない日常の中で、頭の中に整理できないまま引っかかっていた事柄を一つずつ手にとって片付けるような時間でした。 時折、フォークでつつくクリームの添えられたオレンジケーキは、丁寧に手作りされたことがわかる素朴なものでしたが、ぎっしりとした密度と鼻孔を柔らかくかすめるオレンジの匂いのする品でした。 ――そうだ、こんな時間がずっと欲しかったんだ。 私は意識もしないうちに、時間と仕事と約束に追われる日々の中で、ずっと駆け足を続けていたのかもしれません。立ち止まっていられる場所と時間が喫茶店という空間で許されることでしか、私は自分が走り続けていたことに気付けなかったのだと思います。

 珈琲の最後の一口を飲み終え、会計をお願いする時に、入口脇の本棚に『窪島誠一郎』という人の本ばかりが並んでいることが目に留まりました。 私がその棚を見上げていると、会計を済ませた女性は「ここのオーナーの著作なんですよ」と教えてくれました。 「水上勉の息子さんなんですか」 『父・水上勉』と題された背表紙を見てそう聞くと、女性は「ええ」と笑って、窪島氏の来歴をざっくりと話してくれました。水上勉の息子ではあるものの窪島夫妻に育てられたこと。学生時代に明治大学近くの場所に飲み屋を開き、画商として富を築いたこと。長野に住んで、戦没した画学生の作品を展示している美術館を築いたこと。 「美術や芸術が好きで、このビルを建てたんです。上階には絵の展示のできる画廊や、舞台のための小劇場があるんです。広くはないのですが、とても良い設備で、いろんな催しもしているんですよ」 「そうなんですね」  私は人前に出たり舞台や展示を企画する立場ではないのを残念に思いながら、身の回りで誰かが何か企画する時に、今日のことを思い出したりするのかもしれないという予感をふと憶えました。

 その日の夜に、「今日こんな喫茶店に行ってきた」ということをTwitterに書くと、面識はあるけれど普段はほとんど話をしない知人が、思いがけず「ここ、よく行きます」と声をかけてくれました。知人の中にこの場所を知っている人が居たことに少し驚き「居心地良いですよね」という短い会話をしたことも、この日の記憶の一部になっています。  本棚を埋めていた箱入りの立派な本たちは、窪島氏の蔵書なのだとか。天井の高い穏やかな地下で、静かな時間を過ごした日のことを、私は憶えていようと思いました。そして、ふと思い出した時には、また訪れてみようと思います。今度は日常の忙しなさを忘れるためではなく、穏やかな時間を過ごす心準備をして。

ブックカフェ槐多 ブックカフェ槐多 営業スケジュール

このスポットの情報
スポット名 ブックカフェ槐多
連絡先 TEL. 03-3322-5564 / FAX. 03-3322-5676
住所 東京都世田谷区松原2-43-11 キッドアイラックホールB1
定休日 火曜
営業時間 営業時間 平日17:00-22:00 土日祝12:00-21:00