下北沢にバブーシュカという名の、少女のための小部屋が存在していることを知っている人は、どのくらいいらっしゃるでしょう。

大幅な改装を経た下北沢駅の、もともと南口と呼んでいた駅前から三軒茶屋方面へ続く道を進み、餃子の王将の向かい、煙草屋の脇の道を左手に折れて進み、茶沢通りにぶつかるその角の左手にそのお店はあります。

『バブーシュカ』

ロシアの娘たちの被る布の名を冠した、その木張りの床と白い壁を持つ小部屋は、名前の通り少女のための場所であると言えます。 (少女、と一口に言うのは語弊があるやもしれません。 この場合の『少女』という呼称は年齢的なものよりも、年齢・性別すらも問わず「美しいもの」「可憐なもの」に惹かれる清らかな少女の精神を持つ人たちのことを、便宜的に一口に『少女』と呼ばせて頂きます。)

この場所には、心の中の少女をときめかせるものだけが詰め込まれていると、言ってしまっても過言ではないでしょう。木製の桟のガラス窓の手前には棚が作りつけられ、大小さまざまな手製のロマンチックな小物やアクセサリー、小さな絵やキラキラと光るブローチなどが飾られています。

このような、少女の精神を宿しながら凛と存在する場所が、そして少女たちの精神性の砦となるような場所が、かつては井の頭公園駅前に存在していました。 『宵待草』という名のそこも、ミントグリーンを基調にした小部屋ではありましたが、三十年に渡って、少女の抱く「美しいものへ憧憬する精神」を、紅茶やお菓子を供しながら、優しく見守り続けた場所でありました。 その場所を十年以上の間、見守っていた画家の金田アツ子さんが、『宵待草』が失われた後にいくつかのお店を経て、「少女の精神を引き継ぐ場所を」とご友人と開店させたのが、今回ご紹介する『バブーシュカ』なのです。 足を踏み入れると、キシと微かに音を立てる木の床や、窓の外の往来から切り離されたような静けさの空気を帯びたこの場所は、初めて訪れた時から、私は「記憶のどこかで訪れたことがあるような」という懐かしさにも似た既視感を覚えたことを憶えています。

店内には木製の大きなテーブルが2つと、小さな2人がけの席がいくつか。それに壁に向かったカウンターの席がいくつか。 店内奥のカウンター越しに見えるキッチンでは、アツ子さんが手際よく働いている姿が見えて、私は『宵待草』を訪れていた時のような懐かしい気持ちになりました。キッチン手前の小窓の傍らには手書きのケーキの種類が。これまで彼女の個展の会場などで慎ましく取り扱われていた『オトメチカ洋菓子店』と掲題される素朴でロマンチックな気配の焼き菓子たちを、これからは、この喫茶室でゆっくり味わうことができるのだと思うと、胸の奥が温まる気持ちがしました。 黒板に掲げられた種類のうち、選びきれない人は二種盛を欲張る自由もあるのです。

用意された食事は二種類。そのナポリタンに恋をして、彼女が給仕を務めるお店に代々と通うお客さんも多いというアツ子さん手製のナポリタン。真っ赤なケチャップとトマトの濃厚な赤みのソースの中に絶妙に茹で上げられた太麺が、ドレスの裾を広げた婦人のように腰を下ろしています。

私がこのお店を訪れた時に、店内に流れていたのはクライスラーのヴァイオリン曲集でした。 丁寧に空間を染めるその楚々とした音楽に耳を傾ける午後、私は自分の内部に生きる一人の少女を大切にしてあげることが出来たような気持ちがしました。

下北沢を訪れた折に、ふと時間が空いた時。 自分の内面に密やかに暮らす一人の少女と向き合ってみたい時。 穏やかに過ぎる時間の流れと、少女たちの抱く憧れに似た美意識を肌で感じてみたい時。

そんな時はぜひ訪れてみてほしい場所です。 そしてもし空腹なら。絶品の誉れ高いナポリタンとケーキをどうぞお試しください。

このスポットの情報
スポット名 バブーシュカ
連絡先 03-3412-7277
住所 東京都世田谷区北沢2-1-1 ツバサマンション 1F
定休日 水曜日
営業時間 12:00~21:00(L.O.20:30) ランチ営業、日曜営業