僕のアトリエは新宿にある。というわけで、今日も新宿通りを人の波をかき分けるようにして歩いてきた。いやはや、あの雑踏というものは、平日休日一切お構いなしで、渋谷・原宿・銀座と並ぶ東京の名物だ。
大多数の人が、人込みは苦手、と答えるように僕もあまり得意ではない。自分のペースで歩くことなんてできないし、急いでいるときにそれにぶつかってしまうと、とたんにやりきれなくなる。
「急がば回れ」という言葉があるのは分かっているのだけど、それでもなぜか吸い寄せられるように雑踏の中に入り込んでしまう。
そうなのだ。「雑踏」には、目に見えない強力な吸引力が働いているように感じてならないのだ。この道は混んでいるなぁ、遠回りになってしまうけれど迂回しようかなぁ、なんて考えていても、無意識のうちにまるで吸い寄せられるみたいに雑踏の中に入っていってしまう。
あの吸引力は謎である。
また、見ず知らずの人と同じ時間、同じ場所を歩いていると、それぞれ目的地は違うはずなのに、なぜだか同じ方向へ向かおうとする気持ちになってしまうのはどうしてだろう。 それはなんだかちょっと、祭りの会場へ向かう人の流れと似ている。ただでさえ人が多くて、それだけで熱気を感じるのに、それ以上の熱気を求めに行くような、この道の先になにか新しく楽しい事が待っているんじゃないかという期待感が意識しないうちに頭のどこかで働いているような気がしてならないのだ。
それに、「袖振り合うも他生の縁(つまり、道で人とすれ違ったときに袖と袖が触れ合うことすらも、深い縁に基づくものだ、という意味)」という言葉があるように、道を介して今まで出会ったこともないような人々が、すれ違い、目線を合わせたり、話をしたり、人によっては運命的な出会いや別れを経験したり、と見方を変えれば雑踏とはいえ意外に奥が深く、ちょっと大げさに聞こえるかもしれないけれど、一期一会の場、人と人をつなぐ出会いの場という役割すら感じる。
そう考えると、あの息苦しくて疲労感を覚えるような雑踏というのも、案外捨てたものではないと思うのである。もちろん多くの場合、何事も起こらず目的地へ行き来するものだけれど、考え方ひとつで苦手だな、と思っていた人込みも無限の可能性を秘めた新しい出会いの場であると思えば、あのなかを歩くのも苦ではなくなる。
だからもし、いつも人で沸きかえっているような場所、駅や大通りや街中からその賑わいが消えるようなことがあったら、なんと寂しく、味気ないものになってしまうことだろう! 夜明けの人通りの絶えた繁華街なんか思いだしてみるとよく分かると思う。
寂しいのだ。
普段賑わう場所の華やかさの側面を垣間見るようで、なんとも侘しい気持ちにすらなる。だからこそよけいに、たくさん人が集まるところというのは、それだけエネルギーやパワーに満ち溢れた場所でもあるのだ。その力に惹きつけられるようにして、各地から多くの人が集まってくる。
そうして、集まってきた人々のエネルギーやパワーがぶつかり合い、溶け合って、文化の発展や時代の潮流などが盛んになっていくのだろう。
ここに雑踏の吸引力というものの正体があるのかもしれない。
これからどんどん暑くなってくるけれど、散歩するにはまだまだ適した季節だから、仕事の合間をみてはもっとあちこちを歩いてみようと思っている。そして雑踏のなかをすいすいと泳ぐようにして歩きながら、多くの人との一期一会を楽しみ、エネルギーやパワーをたくさんもらおう。
街を歩く楽しみがまた一つ増えた。
掲載日付:2007/05/22